――孫とモノマネ芸人と、AIの時代に思う
人間というものは、つくづく勝手な生き物である。
自分の真似をされて喜ぶこともあれば、腹を立てることもある。
芸能界には、他人の声や仕草を真似ることで飯を食っている人たちがいる。
これがなかなか面白い。
真似をされた本人が腹を抱えて笑い、しまいには二人で肩を組んで舞台に立つ。
自分によく似た、もう一人の自分。
それを隣に立たせて喜んでいるのである。
ところが、同じことを人工知能、つまりAIがやると、話が違ってくる。
勝手に声を使うな。顔を使うな。私の権利を侵害している。
場合によっては裁判にまでなる。
人間が真似れば友情が生まれ、機械が真似れば訴訟になる。
この違いはいったい何なのだろう。
法律の問題だと言ってしまえば、それまでである。
しかし、どうもそれだけではない気がする。
もっと人間の、面倒で、厄介で、それでいて捨てがたい部分に、その答えがあるように思う。
真似をするということ
子供のころ、誰しも一度くらいは憧れの人物の真似をしたことがあるだろう。
野球選手の構えを真似る。歌手の歌い方を真似る。映画俳優の歩き方を真似る。
そこには、ひとつの共通した感情がある。
憧れである。
人は、どうでもいい相手の真似など、そう熱心にはしない。
好きだから見つめる。
見つめるから、細かな癖まで覚える。
そして何度も失敗しながら、少しずつ似てくる。
モノマネ芸人という商売には、その途方もない時間が隠れている。
真似をされた本人も、案外それを知っている。
自分の何気ない仕草を、他人が何年もかけて研究している。
それは少し気味の悪いことかもしれないが、同時に、悪い気のする話でもない。
人間は、自分を認めてくれる人間に弱い。
まして、自分になりたいとまで思ってくれる相手なら、なおさらである。
そこには技術とは別のものがある。
敬意である。
上手すぎる偽物
ところがAIは違う。
何年も鏡の前で練習する必要がない。
声の特徴を学習し、表情を再現し、本人が一度も口にしたことのない言葉を、本人そっくりに喋らせることさえできる。
しかも疲れない。
風邪もひかない。
機嫌が悪くなることもない。
ギャラの交渉で揉めることもないだろう。
実に便利である。
便利すぎるのである。
ここに問題がある。
人間のモノマネ芸人がどれほど上手でも、私たちはそれが偽物だと知っている。
そして、その偽物を楽しんでいる。
だがAIが本物と区別できなくなったとき、偽物は単なる芸ではなくなる。
本人がいなくても、本人の仕事ができてしまう。
本人が歌わなくても、歌が生まれる。
本人が語らなくても、言葉が生まれる。
極端に言えば、本人が死んだあとでも、新しい仕事を続けさせることができる。
これは果たして、モノマネなのだろうか。
それとも、別の何かなのだろうか。
孫という、不思議な存在
そんなことを考えていた折、私には最近、孫ができた。
これが、実に可愛い。
世間では昔から、孫は目に入れても痛くないと言う。
ずいぶん大げさなことを言うものだと思っていたが、いざ自分がその立場になると、昔の人はなかなか上手いことを言ったものだと感心する。
そして、不思議なことに気づいた。
孫というものは、自分に似ているところを見つけると、いっそう愛おしくなるのである。
目元が似ている。
口元が似ている。
ふとした表情が似ている。
そんなことを発見するたびに、何とも言えない嬉しさがこみ上げてくる。
まだ何も知らない小さな人間の中に、自分の面影がある。
考えてみれば、これも一種のコピーである。
しかも、本人の許可など取っていない。
勝手に似て生まれてきたのである。
それなのに、腹が立つどころか、似ていれば似ているほど嬉しい。
AIに自分の顔を勝手にコピーされれば不愉快に感じるかもしれないのに、孫が自分に似ていると、これほどまでに喜んでしまう。
同じように似ているというのに、何という違いだろう。
私はここに、人間というものの本質が隠れているような気がした。
奪われるものと、受け継がれるもの
孫が自分に似ていることを嬉しく思うのは、なぜだろう。
自分の顔が世の中にもうひとつ増えたからではあるまい。
自分の代わりに働いてくれるからでもない。
むしろ、これから先、ずいぶん手間もお金もかかるだろう。
それでも可愛い。
おそらく、そこには「受け継がれる」という喜びがある。
自分が生きてきた時間の、ほんの一部分が、次の世代へ渡っていく。
それは顔立ちかもしれないし、仕草かもしれない。
やがて、考え方や気質に似たところを発見することもあるのだろう。
もちろん、孫は私の分身ではない。
私とは別の人生を歩いていく、一人の人間である。
そのことが、また嬉しい。
自分に似ていながら、自分ではない。
自分の知らない未来へ、勝手に歩いていく。
ここに、生命の面白さがある。
一方、AIによる無断コピーには、そうした喜びが生まれにくい。
そこにあるのは、受け継ぐというより、取り出して利用するという行為だからだろう。
自分が何十年もかけて作り上げた声や表情や個性を、他人が勝手に複製し、商売に使う。
そこには、自分の意思も、人生も、未来も必要とされない。
似ていることが問題なのではない。
似ているものが生まれたことで、自分の存在が豊かになるのか、それとも自分の存在が不要になるのか。
この違いなのではないか。
人間は、自分の代わりを嫌う
考えてみれば、これは芸能界に限った話ではない。
会社でもそうだ。
優秀な部下を育てることに喜びを感じる上司がいる。
自分の仕事を覚え、自分に似た判断ができるようになる。
それは本来、喜ばしいことである。
しかし、その部下が自分の椅子に座ろうとした途端、態度を変える者もいる。
人間とは、その程度には矛盾した生き物なのである。
ただ、ここにはもうひとつの見方がある。
自分の仕事を受け継いでくれる後継者なら、どうだろう。
自分が年老いて引退したあとも、その人が会社を守り、発展させてくれる。
そう考えれば、自分に似た人間の存在は、むしろ頼もしい。
孫も、弟子も、後継者も、どこか似ている。
自分の何かを受け継ぎながら、自分とは違う未来を生きていく。
それは代替ではなく、継承である。
ここで、ようやく少し分かってきた気がする。
人間が恐れているのは、コピーそのものではない。
自分が積み重ねてきたものを、何の敬意もなく奪われることなのだ。
本物とは何なのか
もっとも、AIばかりを悪者にするのも違うだろう。
人間だって、他人の才能を盗む。
他人の手柄を横取りする。
相手の意思を無視して、勝手に商売に利用する。
そういう人間は昔からいた。
反対に、本人の許可を得てAIで声や姿を再現し、新しい作品を生み出すこともできる。
AIだから悪いのではない。
人間だから許されるのでもない。
結局のところ、問題は相手をどう扱うかということなのだろう。
その人を、一人の人間として尊重しているのか。
それとも、利用できる素材として見ているのか。
その違いである。
そしてAIの進歩は、もうひとつ厄介な問いを私たちに突きつけている。
本物とは、何なのか。
声が同じなら、本物なのか。
顔が同じなら、本物なのか。
話し方も、考え方も、癖まで同じなら、それはもう本人なのだろうか。
私は、そうは思わない。
人間には、その人が生きてきた時間というものがある。
悔やんだことも、恥をかいたことも、誰かを愛したことも、誰かに裏切られたこともある。
その積み重ねが、ひとりの人間を作っている。
声や顔は、その表面にすぎない。
どれほど似せたところで、その人生まで複製できるわけではない。
少なくとも、私はそう信じたい。
似ていることの幸福
孫の顔を見ていると、時々、妙な気分になる。
自分が生まれる前にも、こうして誰かが誰かの顔を覗き込み、似ているところを探して喜んでいたのだろう。
祖父がいて、父がいて、自分がいて、そして孫がいる。
顔立ちも、癖も、少しずつ変わりながら、何かが受け継がれていく。
そこには誰の著作権もない。
使用許諾もない。
契約書もない。
ただ、命がある。
もちろん、血のつながりだけが人間の価値を決めるわけではない。
人は血縁のない相手からも多くを学び、受け継ぎ、愛することができる。
それでも、自分に似た小さな顔を見つめていると、理屈では説明できない幸福がある。
自分がこの世からいなくなったあとも、この子は生きていく。
笑い、泣き、恋をして、失敗もするだろう。
そして、私の知らない時代を生きる。
そのことが、何とも嬉しい。
AIは、私の顔を一瞬で再現できるかもしれない。
声も、話し方も、癖も、いずれはそっくりに作れるだろう。
しかし、そのAIが私に似ていることと、孫が私に似ていることは、まるで違う。
前者は、私という人間を再現しようとする。
後者は、私とは別の人間として生きていく。
この違いは大きい。
人間の値打ち
世の中は、便利になる一方である。
速く、安く、正確に。
昨日まで人間にしかできなかったことを、今日は機械がやってのける。
明日には、もっと上手にやるだろう。
それは結構なことである。
しかし、何でもできるようになったからといって、何をしてもよいわけではない。
技術には進歩がある。
だが、人間には節度というものが必要なのだ。
モノマネ芸人が本人と仲良くなれるのは、芸が上手だからだけではないのだろう。
そこに、相手を認める気持ちがあるからではないか。
孫が愛おしいのは、自分に似ているからだけではない。
自分に似たところを持ちながら、自分とは違う人生を生きてくれるからだろう。
そして、AIによる無断コピーが不快に思われるのは、似ているからだけではない。
本人の人生を必要とせず、その成果だけを利用しようとするからではないか。
結局、人間が求めているのは、自分の複製ではないのだ。
自分という存在を認めてもらうこと。
そして、自分が生きてきた何かが、誰かの未来につながっていくこと。
その二つなのかもしれない。
似ていることは、愛にもなれば、脅威にもなる。
その違いを決めるのは、似ている度合いではない。
そこに、相手を思う心があるかどうかである。
さて。
孫はこれから、どんな顔になっていくのだろう。
私に似たまま育つのか。
それとも、まるで似ていない顔になるのか。
どちらでも構わない。
いや、そう言いながら、やはり少しは似ていてほしいと思う。
人間とは、つくづく勝手な生き物である。

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